1951年以降のネパールにおけるヒンドゥスターニ−音楽の導入と受容

 

 ネパールではインド音楽が広く普及している。古典音楽といえば北インドで発展し理論的に体系化されたヒンドゥスターニー音楽を指すほどである。このような一般の人々の認識は1951年の政権交代とそれにともなう文化政策の変化と深く関わっている。そこで本研究では、1951年以降のネパールにおいてヒンドゥスターニー音楽が教育の場と社会的にどのように導入され、また一般の人々にどのように受容されてきたのかを明らかにすると考えている。

 1951年以前のネパールでは独裁的な政治がおこなわれ、国民の社会的な自由が奪われていた。1846年にジャング・バハドゥル・ラナが実権を握り、いわゆるラナ家摂政政治が始まってから104年間のラナ時代はネパールの鎖国時代とも言われている。このような中央独裁的な政治の影響は音楽の教育や活動にもおよんでいた。当時の宮廷ではヒンドゥスターニー音楽のほうがネパールの固有音楽である民謡、民俗音楽などよりも上流階級の音楽であるとされ、優れた声楽家や演奏家が宮廷に集まっていた。

 しかし、1951年にネパールは民主主義国家への第一歩を踏み出した。この政権交代によって社会が大きく変化し、ネパールにおける音楽の活動や教育がより開かれたものとなった。まず、ラナ家の宮廷がパトロンであった時代が終わり、音楽家たちの演奏活動はネパールの国民と国家によって支えられるようになった。1951年から1970に年はヒンドゥスターニー音楽の数多くの音楽家が国王からタイトルを授与されている。

 第二に、私立や国立の音楽教育機関が設立されることによって、ヒンドゥスターニー音楽の教育を一般の国民が受ける機会が増えた。このような音楽教育は「グル・シシャ・パランパラー」と呼ばれる強い師弟関係に基づく昔のヒンドゥスターニー音楽の教習からは変化している。というのは、「グル・シシャ・パランパラー」に基づく教習では一人の師(グル)のもとで厳しい行儀作法と生活の規律のもとに学ぶことが重視されていたが、学校教育においてはグル以外の様々な人々との経験を通して音楽を学ぶことが認められている。ヒンドゥスターニー音楽の教育は音楽教育機関以外の一般の学校ではなされることがなく、その点ではまだヒンドゥスターニー音楽の教育が国民全員に普及しているとは言えない。けれども、これらの教育機関を修了することは一般社会で音楽に関わる職業につくための条件となっており、社会的にその存在意義が認められている。

 このようにヒンドゥスターニー音楽の演奏活動や教育が国民に開かれたものになるのと同時に、ネパールに固有の音楽にヒンドゥスターニー音楽を融合させ発展させる動きもあった。1951年にラジオ・ネパールが設立されたが、それとともに新しいネパール様式の音楽アードゥニック・ギートが登場した。モダン・ソングを意味するアードゥニック・ギートはラーガやフォーク・メロディに基づいたシンプルな形式の音楽である。このようにアードゥニック・ギートの発展とともにネパールの様々な地域の民謡も一般の人々に聴かれるようになった。このように様々なジャンルの音楽が生まれて普及することによって、ヒンドゥスターニー音楽家そのものになる興味が少なくなってきても、様々なジャンルの音楽家になるためにヒンドゥスターニー音楽の知識が必要となるので、ヒンドゥスタニー音楽はそれらの音楽の基礎として存在している。

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